数年前に年賀状を一枚も出さなかった。正月に届いた先に返信を送り、翌年から私なりに気持ちを込めた『年賀状』を送る様にした。 今年は二人からのそれがまだ届かない・・・ 小学校五~六年生の時の佐々木先生と、大学の二年間を同じ寮で過ごした千葉・・・ 。ハガキが迷ってしまったか・・・ 。
My lifeのブログ記事
My life(ムラゴンブログ全体)-
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二年間の寮生活と二年間の下宿生活を楽しんで…楽しんでばかりだね(笑 ... 卒業を前に就職も決まりました。 そして社会人としての第一歩を踏み出したのは初代のカローラが発売された 翌年でした。 私も自家用車が欲しくて 〃 やがてポンコツ一歩手前の様なクラウンを買 いました ^ ^ ふかふかクッション... 続きをみる
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お母さんびっくり・・・ カズエさん大はしゃぎ・・・ 晩酌中のお 兄さんと奥さんと・・・ まぁ、上がって〃 飲みなさい、食べな さい。 メデタシ〃 !? で一日が暮れました ^^
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アルバイト先のデパート・・・時々、紳士服売り場のカズエさんが お友達とお菓子売り場へ来てれました。 帰りの電車が同じ方向で etc ・・・ やがてデートをする様になりました ^^ ある日ケンカになりました。 カズエさん、泣きながら午後の通りを駆けて行きましたぁ~ 公園やら駅やらを捜しま... 続きをみる
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下宿の近くの食堂の様な居酒屋の様な店で一人で飲んでの帰り 路、すれちがった二人連れとトラブルになった。コテンパァ~ にやっつけられて側溝に蹴落とされた。 ある日、大学の構内で二人に呼び止められ『元気だったなぁ』 と笑われた。一年先輩だった・・・ (/_;)
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下宿生活も面白かった。 時々、下宿のお兄さんが民家の居間の 様な所で七輪でホルモンを焼きながら・・・そんな家が数軒かたま っている路地裏に連れて行ってくれた。 ホルモンと焼酎が旨かった。 豚足を見た時はチョイとびっくり したけれど、酔いにまかせて食らいつくと・・・旨い 〃 (^^!
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やがて私も大学生になります^^ 世界史の宍戸先生の出身校、担任の富田先生が相談してくださり二年間は寮生活をするこ とになりました。二段ベッドの部屋が20室、一年生と二年生が半々で先輩が二名残って いました。 はじめての地で初対面の人達と楽しく二年間を過ごしました。"同じ釜の飯を食った" 何 人かと... 続きをみる
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入試に備えて頑張ったぁ~! 様な記憶はありません^^ マサユキは授業中も別の参考書を見てました。明るい性格で休日は一緒にサイクリングへ行ったり・・・ etc そして当然の様に東大へ行きました。今もクラス会にやって来ます。 教授になっても『力関係』は当時のまま・・・ 彼もそれを楽しんでいるのだと思... 続きをみる
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三年E組のクラス会は今も続いています。同じ様な話を繰り返しながら楽しんでいます。 写真の五人も元気 〃 です。 クニタカのお母さんが『飲み物は自分たちでね^^』とジンギスカンとお握りを用意して くれました。
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三年生の文化祭、クラス会で演し物の相談をした。六人でフラダンスまがいの踊りをする ことになった。反対は私だけで仕方なく一緒に踊り、最後に胸当て?に入れておいたアン パンを放り投げた。観客...と言っても先生と生徒だけれど大爆笑で大受けしました^^
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近所に同じ高校へ行く同期が二人いたけれど、登下校で一緒になった記憶は・・・ 雨の日 の下校時に先を歩くトシコさん、私は傘をさしていたけれど彼女は傘ナシだった。 傘を渡して私は走ろうかなどと思いながら・・・ 距離を詰めることもなく角を曲がるのを 見送ってしまったことくらいだ ^^
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卒業式が終わり静かになった校内を数人と一緒に歩き、やがて玄関のそばの教室にいた。 病気で一年遅れて六年生を一緒に過ごしたガンセさんはお姉さんだった。ガンセさんが 『さぁ、帰ろう』と言った。 歩きながら、一人 〃 とさよならを言った。一人で歩きながら涙がながれました。
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運動会より遠足が好きだった。街はずれの川沿いの辺りでお昼を食べた。 楽しそうだね・・・ 楽しかったんだね ^^ 中心のヤノさんは明るく元気なおんな・・・ 否 女子リーダーだった。
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炭鉱街の小学校の生徒と野球の試合をすることになった。その前日に母にユニフォームが 欲しいと言った。 母は普段着で良いと思うよと言いながら運動具店へ行き用意してくれた。 よかったと思う気持ちと、母にすまないと思うそれとがない交ぜになった。 私の肩に手を置いてくれているのが佐々木先生です。
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笛吹童子、紅孔雀・・・ ノンちゃんやシゲルクンと観に行った。 山側の炭鉱街の劇場は大きくてきれいだった。大きな店舗もあって母はノンちゃんのお母 さんとリックを背負い買い物に行った。何となく炭鉱街の方が活気ある様に感じた。
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小学校五年生と六年生の二年間の担任が『佐々木先生』でした。 先生一年生、少し年の離れたお兄さんくらいの先生で、私の人生で深く 〃 記憶に残る大好きな先生です。書き切れないたくさんの思い出が巡ります・・・。
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絵にすると昭和の漫画になりそうな話し・・・ まだ 〃 続きます^^
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向かいは大きな『お寺』でした。広い境内は子供たちの遊び場でした。 夏祭りには見世物小屋とオートバイサーカスとたくさんの子供心を掻き立てる出店が並び ました。 大晦日には鐘撞堂で除夜の鐘が百八つ。暖かな時期は正面の石門の陰に女の乞食がいまし た。『みなみのせっこ』と呼ばれ、裏玄関に 食べ物を乞いにき... 続きをみる
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田舎の暮らし・・・ 一年とか二年とかの期間と思います。 その間に弟が亡くなりました。同居する一人の結核がうつり一歳半の命を閉じたのです。 病院の出窓の様な所で母が炭火で魚を焼いている・・・ そんな光景がぼんやりと記憶にあり ます。 ご飯支度をしていたのかも知れませんが、それが本当にそうだったかは分... 続きをみる
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父親は三重県伊勢の出身でした。騎馬隊にあこがれ、家を抜け出して入隊したとかの話し を、後々に父の姉から聞きましたが、それから満州へ至る経過などは分かりません。 敗戦後、軍隊で一緒だった人の父親が北海道で木材店を営む人だった縁で、復員後はその 店の木材を切りだす田舎での生活から始まりました。
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昭和十九年七月七日、父Sinnjiと母Tosiの"長男"として新潟県新津市で生を受けました。 父は職業軍人でした。母は軍のタイピストだったそうです。 父と母は満州(今の中国)で生活していました。母は私を実家のある新津市で里帰り出産 しました。