不確かな記憶 ・・・

田舎の暮らし・・・ 一年とか二年とかの期間と思います。

その間に弟が亡くなりました。同居する一人の結核がうつり一歳半の命を閉じたのです。

病院の出窓の様な所で母が炭火で魚を焼いている・・・ そんな光景がぼんやりと記憶にあり
ます。
ご飯支度をしていたのかも知れませんが、それが本当にそうだったかは分かりません。

ふもとの町へ行く何人かの人を乗せた馬橇に乗って、電柱の上端近くまで雪に埋まった白
い雪原に電線がジグザクと続く光景が記憶にあります。

弟のことは私の記憶にありません。父が利口な子だった・・・ と話すのは聞いた様な気がし
ます。

義妹の・・・

義妹の三回忌に行ってきた。本人が居るかと思うほど似た声音の姉の喋りが止まらない。
私と目線が合っても怯むことはない。
義妹、一生懸命な人だった。私は少し苦手だったけれど…。

父親は・・・

父親は三重県伊勢の出身でした。騎馬隊にあこがれ、家を抜け出して入隊したとかの話し
を、後々に父の姉から聞きましたが、それから満州へ至る経過などは分かりません。

敗戦後、軍隊で一緒だった人の父親が北海道で木材店を営む人だった縁で、復員後はその
店の木材を切りだす田舎での生活から始まりました。

母から・・・

後々に母が断片的に話してくれました。何時ごろに何度聞いたかは覚えていません。
何かの折に何度か話してくれたのだと思います。


毎朝、兵隊さんが馬を曳いて迎えにくるんだよ・・・
騎乗すると振り返らないで行くんだよ。
その後で兵隊さんが戻ってきて掃除をしてくれるんだよ。


ロシア人の二人がスケートでダンスをするのを(アイスダンスだろうか)お父さんと観に行ったよ。きれいだったよ。

終戦

その後、母と私は母の実家で生活していました。

翌年、昭和20年8月に終戦となりました。私は一歳になり二歳になり・・・ 。

当時のこと・・・  わずかにでも覚えていることと母から聞いた話しがない交ぜにあると思いますが、祖母と叔父・叔母と二人の従兄に加えご近所のSibataさん母娘と・・・  私はやさしく包まれていたのだと思います。